格格の北京日記


胡同めぐり

bamboo-bearさんら4人で北京の胡同めぐりをした。
今はオリンピック前の建設ラッシュ。古い胡同もどんどん壊されたり、ゴテゴテに修理されたりしてどんどん姿を変えている。そうなる前に今のうちに見ておきたかった。

午後、最初に鼓楼あたりから見物を始めた。この辺りには日本のアニメDVDやゲームなどを売っている店が多い。賑やかな繁華街だが、胡同に入っていくと昔から変わらない老北京の姿があった。鳥かごをぶら下げて日向ぼっこする老人や、将棋をさす人。北京人は鳥を飼うのが好きだ。インコ、九官鳥、鳩などを飼っているのをよく見る。鳩は飛ばす訓練をして、足に笛をつけて、風を切って笛を鳴らすのを楽しむそうだ。
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胡同で鳥かごをさげてくつろぐ人々。



古い時代の地図を見ながら胡同を歩いた。せっかくだから著名人の家を探そう、ということで近くにありそうな清代のマニアックな有名人の家へ。


コースは、鼓楼→栄禄の家→ソンゲリンチンの王府→郭沫若故居→恭親王府→慶親王府→梅蘭芳故居→溥傑の家→醇親王府。これらの多くは民家や政府機関として使われているため内部を見学することはできないので外から確認しただけ。恭親王府、醇親王府、郭沫若、梅蘭芳は公開されていて見学可能だが、時間が遅かったので入らなかった。


まず訪ねたのは、栄禄の家。栄禄は満洲旗人、瓜爾佳氏。清末に直隷総督などを務めた大官で西太后の片腕。戊戌変法では、栄禄は変法派の西太后を排除計画を知り、西太后のために変法派を一網打尽に。義和団事件では開戦反対だったが、公使館攻撃を命ぜられ逆に公使館を保護し、西太后への戦争責任追及に逃げ道を用意した。西太后は栄禄の忠義ぶりに報いるために、彼の娘を醇親王載澧と結婚させた。そこに生まれた長男が溥儀であり、栄禄は溥儀の外祖父にあたる。

栄禄の家は菊児胡同にあった。そこには「旧宅院」という文物保護単位指定のプレートがあったが、栄禄の家とは書かれていなかった。住民が出てきたので聞いてみると、栄禄の家であると教えてくれた。プレートにもそのように書けばいいのに。直隷総督兼北洋大臣のお屋敷だったのだから、昔はさぞかし豪勢だったのだろうと思うが、今は多くの人の住宅になっているので中を見ることはできない。

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栄禄故居




次に訪ねたのは炒豆胡同のソンゲリンチン(僧格林沁)の王府。

ソンゲリンチンは内蒙古ホルチン(科爾沁)の親王で、清朝の将軍として活躍した。太平天国軍の北進を撃退したり、アロー戦争で奮闘したりと清朝のために頑張ったのだが、最後は捻軍の反乱を鎮圧に行って、戦死してしまった。同治帝は戦死の報を聞いて悲しみ、彼を太廟に祀り、また王府の近くに祠堂を建ててその忠義を称えたという。

こちらは「僧王府」というプレートがつけられている。門のところに彫刻を施した大きな石が2つ置かれていた。これは何だろうと思っていたが、後で調べると「門墩」といって、門枠を支える役割を果たしていたものであった。これだけ大きくて彫刻の美しい門墩があったのならば、往時の王府はさぞかし美しかったのだろうなと思われた。

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僧王府。彫刻を施した石が門墩。門墩についてはhttp://www.zggczj.com/Article/nbmk82/nbmk83/200605/4736.html
参照。




バスに少し乗って恭親王府方面へ行く。

途中に郭沫若故居がある。この辺りは三輪車の客引きが多くて辟易した。団体観光客もぞろぞろ移動していて騒がしい。三輪車の客引きはしつこいし、以前中国人の友人と一緒に乗ったのに、騙されて変なところで下ろされたりしたので、こりごりである。

近くの胡同で住宅の解体現場に出くわした。老夫婦によると、国がお金を出してくれるので、新しいものに立て替えるという。

恭親王府はメジャーな観光地なので観光客と三輪車だらけだった。通りにずらーっとものすごい数の三輪車が止まっていて、客引きをまくのも一苦労である。恭親王府は時間が遅かったので入らなかった。

恭親王府は恭親王奕訢が賜った屋敷だが、その前は慶親王府、さらにその前は乾隆帝の寵臣和珅の屋敷だったところだ。

恭親王奕訢は咸豊帝の弟。辛酉政変では西太后側に立ち粛順らを打倒し、議政王大臣、軍機大臣になったが、後に西太后と対立して失脚させられている。
奕訢の孫の溥偉は、清朝が滅亡するとドイツの租借地青島に移り復辟運動を行った。復辟のために私財をつぎ込み、この王府も売ることになってしまった。

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観光客で賑わう恭親王府。看板の文字は溥傑の筆。




恭親王府の近くには、溥儀の叔父載濤の屋敷、「濤貝勒府」がある。今は北京市第十三中学として使われている。

載濤は醇親王奕譞の七男で、道光帝の八男鐘郡王奕詥の養子となり、貝勒に封ぜられた。清末には兄醇親王載澧が摂政となり、載濤は陸軍を任せられた。1970年83歳まで長生きし、愛新覚羅一族の族長であった。

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濤貝勒府(現北京市第十三中学)




濤貝勒府から程近い定阜街には慶親王府がある。

慶親王奕劻は清末に軍機大臣などを務めた重要人物だが、辛亥革命勃発時に失脚していた袁世凱を呼び戻すように進言し、清朝滅亡の原因を作ってしまった。賄賂好きでものすごい蓄財をしていたそうだ。
現在は公安の建物になっていて、往時の面影はない。

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慶親王府。





その通りを歩いていくと護国寺街になり、京劇の名役者梅蘭芳の故居が記念館になっている。

護国寺街には溥傑が釈放後に住んだ家もある。溥傑はここで日本から呼び寄せた浩夫人と晩年まで生活した。浩夫人に先立たれてからは猫をたくさん飼っていたそうだ。1994年に溥傑が死去すると、この家は国に寄付された。護国寺街52号にはプレートなどはつけられていない。

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溥傑が住んでいた護国寺街52号。


ちなみに溥傑の遺骨は本人の希望により、日本と中国に分けられ、中国では散骨、日本では山口県下関市中山神社内の愛新覚羅社で浩夫人と、同級生と19歳で自殺した長女の慧生さんとともに眠っている。

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下関市中山神社内愛新覚羅社。2006年9月に訪ねたときに撮影。神社には浩さんが結婚式で着た着物などを展示する資料館もある。




日もとっぷりと暮れて暗くなったが、そこから歩いて後海をぐるりと歩いて醇親王府へ。醇親王府の花園は宋慶齢故居となって公開されている。

溥儀はここ醇親王府で1906年に生まれた。1924年に紫禁城を追われてからは醇親王府へ戻ったが身の危険を感じ、そこから日本公使館→天津張園→天津静園→満洲へと移ったのだ。





今日の胡同めぐりはよく歩いた。最後に新街口で夕食に北京ダックを食べ、今日の活動は終了した。新街口烤鴨店は値段も手ごろで、味もよく、地元の庶民で繁盛していて良い店だった。
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by dagege | 2007-10-14 01:37

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北京に留学している格格の日記です。中国のおもしろ体験を紹介できたらと思います。格格はゲゲと読みます。満洲語の女性の敬称で、お姉さん、娘、お嬢さん、お姫様など場合に応じて使い分けられます。
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